KAGA KUTANI

「加賀九谷」について

加賀九谷というプライド。

九谷村から始まる「加賀九谷」の歴史。吉田屋により再興され、山代の地に移されて以来、その窯は脈々と引き継がれ、その系譜は現在に連なっています。古九谷から続く九谷焼本流の誇りを胸に、私たちはこの地で日々、腕を磨いています。

1. 九谷焼発祥の地

九谷焼は、江戸時代の初期に、加賀国の江沼郡九谷村(現・石川県加賀市山中温泉九谷町)でその歴史が始まりました。

寛永16年(1639)、加賀藩主・前田利常は、加賀国の南西にある江沼郡を分封して大聖寺藩を立藩し、三男の利治に治めさせることにしました。才気溢れるこの初代大聖寺藩主は、積極的に藩内経営に乗り出します。家臣の後藤才次郎に命じて、殖産政策として領内の鉱山開発を始めました。すると、九百九十九の谷があるといわれるほど山深き大聖寺川上流の九谷村から、磁器の原料となる陶石が産出されることがわかりました。

茶人でもあった利治は、この陶石を使って磁器を生産し、藩の産物にしようと思い立ちます。そこで、後藤才次郎を磁器製作の先進地・肥前国有田(現・佐賀県西松浦郡有田町)に派遣し、作陶技術を学ばせることにしました。こうして、修業を終えた後藤才次郎は、帰藩後の明暦元年(1655)頃、九谷村に窯を開き、田村権左右衛門らを指導して色絵磁器の生産を開始しました。これが九谷焼のはじまりです。このため、大聖寺藩の江沼郡九谷村、つまり現在の石川県加賀市が九谷焼発祥の地とされています。

この時代につくられた作品は「古九谷」と呼ばれ、その大胆な構図や豪放絢爛な色彩は、我が国の色絵磁器の傑作と評されています。なお、古九谷と伝わる色絵磁器はすべて有田・伊万里製だという見解も有力です。しかし、現在、九谷焼窯跡展示館に常設展示している2点の古九谷は、放射線を用いた非破壊分析の結果、九谷村の窯でつくられた素地であることが判明しています。古九谷はすべて有田産というわけではなく、加賀でも色絵磁器が焼かれていたことを明確に示すものです。

この九谷村の窯は「九谷古窯」と呼ばれますが、開窯から約50年後の18世紀初頭、突如操業を終えました。その理由には、藩主利治の死や藩の財政難、あるいは幕府からの圧力など諸説ありますが、いまだ謎に包まれており、真相は定かではありません。なお、九谷古窯の遺構は現存しており、「九谷磁器窯跡」として国指定史跡となっています。

2. 吉田屋窯による再興九谷

大聖寺藩の九谷古窯が閉ざされてから約100年後、加賀藩で磁器生産を再開しようとする動きが出てきました。まず、文化4年(1807)、京都から京焼の名工・青木木米を金沢に招き、卯辰山(別名「春日山」、現・石川県金沢市山の上町)に「春日山窯」を開きました。木米が京に戻った後も、加賀藩士の武田秀平が「民山窯」として受け継ぎました。

また、青木木米の助工であった本多貞吉は、能美郡花坂村(現・石川県小松市花坂町)で良質な陶石を発見し、文化8年(1811)、近隣の若杉村(現・石川県小松市若杉町)に「若杉窯」を開窯しました。のちに多くの窯で活躍する粟生屋源右衛門をはじめとする多くの優れた陶工を輩出し、文政2年(1819)に薮六右衛門が能美郡小野村(現・石川県小松市小野町)で「小野窯」を、天保6年(1835)には斎田伊三郎が能美郡佐野村(現・石川県能美市佐野町)で「佐野窯」を開くなど、後に続く窯元も生まれました。

大聖寺藩でも、城下の豪商「吉田屋」の豊田伝右衛門が磁器生産に乗り出します。伝右衛門は文政7年(1824)、古九谷の復興を目指して、九谷古窯の隣に「吉田屋窯」を築きました。粟生屋源右衛門ら各地の名工を招いて、古九谷特有の重厚絢爛な「青手」の再現に注力したのです。

これら加賀藩・大聖寺藩各地で復活生産された一連の色絵磁器を「再興九谷」といいますが、当時「九谷焼」と呼ばれていたのは、九谷村に窯を開き、古九谷の復興を明確に目指した吉田屋窯の作品だけでした。そして明治に入るまでは、「九谷焼」という名称は、吉田屋窯とこれを継承する窯元、および影響を受けた大聖寺藩内の窯元の作品に限って用いられることになります。

吉田屋窯は開窯から1年数か月後の文政9年(1826)、交通の便の悪さや冬の積雪のため、九谷村から山代温泉の越中谷(現・石川県加賀市山代温泉)に窯を移しました。以降、この山代の吉田屋窯は、紆余曲折を経ながらも昭和15年(1940)まで、「九谷焼の窯元」として脈々と受け継がれていきます。現在、その遺構は、九谷焼窯跡展示館の九谷磁器窯跡(国指定史跡)でその姿を偲ぶことができます。

3. 吉田屋窯を継承する窯元の数々

吉田屋窯は天保2年(1831)にいったん操業を停止しますが、翌天保3年(1832)、吉田屋窯の支配人だった宮本屋宇右衛門が吉田屋窯を継承し、「宮本屋窯」として再開しました。画工の飯田屋八郎右衛門が手がける赤絵細描が高い評価を呼び、「八郎手」と称されました。

大聖寺藩も磁器生産を積極的に主導していきます。嘉永元年(1848)、名人・粟生屋源右衛門を招いて江沼郡松山村(現・石川県加賀市松山町)に「松山窯」を開窯。古九谷・吉田屋窯の流れを汲む青手九谷を主に生産させました。

大聖寺藩はさらに、嘉永5年(1852)年に廃窯した宮本屋窯を、万延元年(1860)に買い取って藩の直営とします。そして京都から京焼の名工・永楽和全を招き、慶応元年(1865)に「九谷本窯」として開窯しました。和全は赤地の上に金で模様を描く「金襴手」という技法を開花させるなど、窯をおおいに牽引したため「永楽窯」とも呼ばれます。

ほかにも、京都や有田・唐津で学んだ山代新村の木崎卜什は、帰郷後の天保2年(1831)、自宅内の庭に「木崎窯」を築窯しています。卜什が描く赤絵金彩は、飯田屋八郎右衛門の赤絵細描「八郎手」に影響を与えたといわれています。木崎窯は息子の木崎万亀が受け継ぎ、文久2年(1862)には山代春日山に窯を移しました。九谷本窯との契約期間を終えた永楽和全も一時期、この春日山の木崎窯で作陶していたとのことです。

ところが明治期に入ると、廃藩置県により九谷焼の窯元は藩の後ろ盾を失い、事業としてのあり方が変わってきます。金沢や小松、寺井では、窯元、陶画工、陶器商の分業化が進み、量産体制が確立されました。欧米で「ジャパン・クタニ」と称される作品を大量に生産し、輸出産業が活況を呈します。

他方、旧大聖寺藩では、九谷本窯や松山窯、木崎窯などで技能を学んだ優秀な陶工が続々と育ち、規模は小さいながらも、窯元を中心に素地作りから絵付けまで一貫生産する昔ながらの生産体制を維持していました。勅使村の東野惣次郎や、栄谷村の初代北出宇与門は、現在まで続く自らの窯で制作に励みました。松山村出身で永楽和全門下の大蔵清七(初代大蔵寿楽)は、旧大聖寺藩士の塚谷竹軒とともに、民営化されて経営不振に陥っていた山代越中谷の九谷本窯を譲り受け、その再建にあたりました。

そして九谷本窯は、石川県令・千坂高雅から官金の提供を受けた旧大聖寺藩士の飛鳥井清が明治12年(1879)に社長に就任し、「九谷陶器会社」として再出発しました。この九谷陶器会社には、塚谷竹軒、大蔵清七のほか、竹内吟秋・浅井一毫兄弟、金沢から招いた初代諏訪蘇山、須田与三郎(初代須田菁華)や、大聖寺の中村亀太郎(初代中村秋塘)など、錚々たる面々が在籍していました。やがて会社を辞し独立した彼らは、いずれも独自の作風を確立し、歴史に残る名品を数多く生み出していきます。

一方で、九谷陶器会社は経営が安定せず、明治25年(1892)、山代の永井直衛の手に渡り「九谷陶器本社」と改称されます。明治33年(1900)には、大蔵清七の娘婿である大蔵寅吉が譲り受け、大正8年(1919)には、大蔵清七が開いていた「大蔵窯」と合併して「九谷寿楽製陶株式会社」が設立されました。この会社も大正13年(1924)に解散となりますが、経営陣の一員だった嶋田善作(初代嶋田寿楽)が吉田屋窯から続くこの窯を引き継ぎ、「九谷寿楽窯」を開きました。現在も三代嶋田寿楽が作陶を続け、吉田屋窯以来の再興九谷本流を汲む窯元を守っています。

4. 近代〜現代の加賀九谷

明治末から大正、昭和にかけて頭角をあらわした陶工たちは、全国規模の展覧会に入選することで名声を得たり、著名な芸術家と交流を持つようになるなど、自立した作家として活動する気運が高まっていきます。

赤絵金彩を得意とした大聖寺の初代中村秋塘は「秋塘窯」を開き、様々な展覧会で入賞を重ねました。のちに中村翠恒と号する三代中村秋塘は、河村蜻山や板谷波山に学び、帝展や日展で活躍しました。九谷焼技術保存会の初代会長を務めています。

初代須田菁華は山代温泉に「菁華窯」を開きました。ここには、大正4年(1915)、金沢の細野燕台に連れられて北大路魯山人が訪れ、彼が陶芸に開眼するきっかけを与えています。また、三代目北出塔次郎のときの北出窯には、昭和11年(1936)当時、のちに人間国宝となる富本憲吉が色絵の研究のため逗留しており、彼によって北出窯は「青泉窯」と命名されました。

こうして逗留中の富本憲吉から多大な薫陶を受けた北出塔次郎は、独創的な色絵の世界を展開していきます。「帝展」「文展」に出品してしばしば特選を受賞、昭和21年(1946)の第1回日展でも特選を受賞しました。また、同年に開校した金沢美術工芸専門学校(のちの金沢美術工芸大学)の創立に参画し、教授として長らく教鞭をとりました。昭和43年(1968)には、九谷焼界では初めて日本芸術院賞を受賞しています。

青泉窯四代の北出不二雄も、古九谷風の伝統技法を現代風に表現しつつ、釘彫りを駆使した新しい装飾技法を施すなど独自の作風を確立していきます。日展を中心に活躍し、昭和62年(1987)には日展内閣総理大臣賞を受賞しました。父親と同じく金沢美術工芸大学で教授に就任、平成3年(1991)からは学長を務めています。父子二代にわたって、後進の九谷焼作家を数多く育成しました。

このように現在の加賀九谷の作家たちも、古九谷以来脈々と続く伝統技法を受け継ぎながら、独自の表現手法を打ち出して創作活動に励んでいます。思えば加賀九谷は、古九谷および吉田屋窯による「青手」、宮本屋窯の飯田屋八郎右衛門による赤絵細描「八郎手」、九谷本窯の永楽和全による「金襴手」をはじめ、現在の九谷焼を特徴づける様式を新たに編み出してきたという「伝統」があります。

これからも私たちは、九谷焼発祥の地で九谷焼をつくるという誇りを胸に、作家それぞれの個性を最大限に発揮しながら、「一品=逸品主義」をモットーに手作りの良品を誠実に作り続けて、新たな価値、新たな芸術を生み出していきます。

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